θαλαττα,θαλαττα.

読んだ本の覚書・考えたことのメモ・展覧会の感想等を記事にしていきます。

海底二万海里(上)

先日、学校の本屋で文庫本が安かったので、夏はSFを読もう!ということで、『海底二万海里』(新潮社)を買った。とりあえずお試しで上巻だけ。

海底二万海里は専門書を読んでてもちょくちょく例として引き合いに出されるし、私自身博物学とか深海とかスチームパンクとか好きだし、専攻は19世紀かな~とか考えているので読んでみたいとかねてから思っていた。

上巻一冊でも結構分厚いのでまだ読み切っていないが、アロナクス博士がネモ船長に助けられ(?)ノーチラス号に乗り込んでその科学力に衝撃を受けたあたりまでは読んだ。

というわけで、ここまでの所感を書いてみようと思う。(前置きが長い?)

 

率直に言って、なんとなく物語に入り込みきれない。メートル法じゃない謎の単位(ピエとか)が出てくるせいもあるし、数字が苦手な私には船が浮き沈みするメカニズムを数で説明されてもよくわからないというのもある。

ただ理由はそれだけではない。ネモ船長は文明と人間を嫌悪し陸地から遠ざかって海に潜った。しかし、彼も狩りとか言って絶滅危惧種のラッコを狩っていた。引網漁で「海底を根こそぎ洗うように」必要以上の魚をとっていた。海底の森を「所有」していた。

彼が嫌う文明と人間とは(図書室の蔵書からわかるように)どうやら政治や社会の闘争、絶え間ない戦争をいうようだが、自然を人間のものと考え不必要に狩り尽くす行為も「人間の身勝手さ」という点でこれと通底すると感じる。

人間のとどまるところのない支配欲が植民地支配や領土争い、政治闘争などの様々な軋轢を生み犠牲者を出す。ネモ船長が嫌悪し捨てた地上の人間たちとネモ船長は同じ次元で生きていると思ってしまう。

19世紀の人間観の限界なのだろうか。戦争に疲れながらもやがて史上初の総力戦を数十年後に控えるこの時代において、止むことのない闘争は人間の浅ましさとして強調された。一方「人間も地球に生かされている」「自然は誰のものでもない」という考え方が広まるにはさらに一世紀を待たなければいけないのかもしれない。

 

あとオオサンショウウオが日本近海を泳いでいたところに持ってかれました。